『マイマイ新子』片渕須直監督トークショウ in キネカ大森(2)

……お待たせしました。第二回です。



(1)からの続きです。


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氷川:じゃ、ちょっと新作に絡めて話を進めましょう。いきなりポスターが出ていてこれが何だろうと思っている方も少なからずいるでしょうし。さっきまで『ももへの手紙』をやってたじゃないですか。ちょっと関係があると言えばあるんですか?
片渕:『ももへの手紙』も広島県呉市が舞台なんです。呉でも瀬戸内海の島嶼郡というか島の方なんですが、『この世界の片隅に』は呉市の街の話になります。
氷川:海を挟んで反対側の話ですよね。
片渕:そうですね。だから自分たちも何度もロケハンに行ってたんですけど、そこに行くと『もも』の宣伝がドーンとあるわけです。
氷川:ご当地アニメですよね。アニメ業界でも聖地巡礼が流行ってますけど、どっちかっていうと『もも』とか『マイマイ新子』とかは聖地というよりはご当地アニメという感じで、ジャンルがちょっと違う気がしますよね。
片渕:『マイマイ新子』に関しては10月にも舞台になったところにも行って、昭和30年を舞台にしているその場所に行ってみると何が起こるかって言うと、否応なく行った先で存在していないものを思い浮かべることになってしまうんですよ。で、これは『マイマイ新子』を作る時にあえてやったことなんですが、雲の出方とか土の色とか山の形は(今のものも昔の場面でも)一緒にしておこうと。要するにそこは一番現実に存在しているものをリアルに残しておこうと思ったんですね。それは山の形なんて千年前も今も昭和30年も一緒ですから。山の形が一緒だなと思ったり、瀬戸内海の雲の出方とか独特ですから、見てると否応なく想像力を刺激されざるを得なくなるんですよ。それが映画の中で千年の魔法って言ってたんですけど、まあ千年の魔法って一体何なのか分からない様になってるわけなんだけど、でも何となくそれが解ってしまう気がしてしまうんですよ。映画だけで完結しなくて、現地へ行ってみて、更にこういうことだったのか、と言うことが映画を観てその場に立ってくれる人の中で出来上がっていくみたいな感じがあって、それが楽しいんですね。
氷川:そういう意味で、これから何年経っても観られる映画であり続けるだろうし、10年後なのか50年後なのか分からないけど観た人に感銘を与える映画になっていると思います。
片渕:だから差し出がましくもここへ行くと面白いものが見れますよ、と防府に行こうとか言っている人には指図しちゃうんですけど。
氷川:マップとか出来ていないんですか?
片渕:マップもあるんですけど、それより防府に行きますとTwitterとかでつぶやくと、何故か防府の方が出迎えてくださるケースがだいぶんあったんですよ。
会場:(笑)
氷川:オオゴトになってますね。
片渕:だって(今日だって)防府から人が来てますから(客席を見ながら)。
氷川:このティーチインがあるということだけで?
片渕:それもあるし、あと来年の『マイマイ新子』カレンダーを作んないとならないんですよね。来年のカレンダーを今から作るってどうするんだっていう(そのためにわざわざ防府から上京していただいた)。
氷川:今頃は入稿してないとマズイ時期じゃないですか?
片渕:表紙も入れて、7ページにしようか13ページにしようか。
氷川:台割も決まってない!
片渕:昨日今日決まったという。
会場:(笑)
氷川:『この世界の片隅に』の話に戻ると、これは戦時中の話なんですか? 戦前からでしたっけ?
片渕:戦前からなんですが、『この世界』と『マイマイ新子』の考証を手伝ってくれている前野(秀俊)さんという方が(今日も)会場にいらっしゃっているわけですが、『マイマイ新子』に出てくる貴伊子ちゃんのイメージを(彼と)どうしようかって言った時に、割と戦前の中流階級のお嬢さんをそのまま描いちゃえばいいんじゃないかって言われたんですよ。で、そういう風に言われてみて、ずうっと考えてみると戦前から戦後へってのは戦争中の一時期を抜くと物凄く直結してしまうんですね。なんせ昭和12年まではクリスマスパーティーを普通にやってて、海軍の士官がクリスマスパーティーで12月24日は大騒ぎしてるって状況があって、それから突然戦争になって、戦後貧乏な時期があって、で昭和30年くらいなってそういうのが払拭されて、戻ってみたら意外におんなじだったという。で、その延長上に僕らは生きてるんだなという感じがするわけですよ。もちろん社会体制とか若干違うところとかあるけど、庶民の目から見ると意外と一繋がりだったりしてね、でね、戦争中の一時期だけが凄くねじ曲がって変な時期だったんだなって思うわけなんですよ。そういう意味では『この世界』は戦前から始めてみて、後ろに『マイマイ新子』がくっつく感じのものが出来たら面白いんじゃないかと思っているわけなんですよ。原作は昭和9年の1月からなんですが、もうちょっとだけ早めさせてもらって昭和8年のクリスマスくらいから始めたいと思ってます。そこから昭和21年までやるわけなんですね。戦争跨いでまだ先までやって、で、その先にあるのがきっと『マイマイ新子』の世界なんじゃないかと。
 そもそもこの作品についてWEBアニメスタイルで連載を始めていまして、なんでこの作品をやろうと思ったのかなどを書いているんですけど、『マイマイ新子』のお母さんが昭和30年で29歳なんですね。
氷川:昭和元年から2年生まれですか。
片渕:昭和元年か、大正14~15年生まれになるんですけど、で、新子ちゃんてのは19歳の母親に身ごもられた子供なわけなんですね。新子ちゃんは昭和21年生まれなんだけど、要するに団塊の世代じゃないわけ。団塊の世代の方っていうのは終戦後に復員してきたお父さんとお母さんの間にベビーブームになったわけだけど、その前に新子ちゃんは身ごもられててね、新子ちゃんて空想上の人じゃんって思うわけなんですけど、かなり原作者の高樹のぶ子さん(※「高」は本来「ハシゴ高」です)の実際のご家族の記憶とかが物語に反映されているもんだから、僕自身も高樹さんにいろいろ訊いてみたんです。お父さんとお母さんはどこで最初の所帯を構えられたんですかって訊いたら海軍の大分基地の営門の外に下宿があってその一部屋です、みたいなことから始まって、終戦時には郡山にいて、その時には自分はすでに身ごもられていて、それで想像すると一番悪阻の激しい時期に山口防府まで帰ってくるわけなんです。それも夫婦で帰ってくるんです。それちょっと大変だったらしいとお話とかありました。
氷川:当時の鉄道とかってぜんぜん今と違いますからね。
片渕:滅多に走らない列車に満員で人が乗ってる状況ですからね。そういう話とか伺ってて、18~9の花嫁さんが居てって話を『マイマイ新子』の延長で描きたいなって思ってたところにたまたま『この世界の片隅に』に出会ったら新子ちゃんのお母さんとたまたま同い年か一つ年上の主人公が、しかも山口県の隣の広島県にいるので、そのまま直結している感じがしたのが面白かったんです。これは是非やらせて欲しいと言ったんです。
氷川:丸山(正雄)さん(元マッドハウス社長・現MAPPA代表・『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』プロデューサー)から持ち込まれたんですか?
片渕:違います。これは完全に自分の企画で、自分でこれをやりたいって言った企画が生まれてはじめてほぼ通ったんです。そういう意味では丸山さんを動かすのが結構大変だったんですよ。丸山さんが防府に行って『マイマイ新子』の野外上映をやってるのを見て、そこに各地からお客さんが来て、防府の方も含めて1000人位いたんですが、上映を見終わって丸山さんが「片渕くん、あのお客さんたちに応えるためにはね、これは(『この世界の片隅に』)映画で創らなきゃダメだよ。」とようやく言ってもらうまでになったのが2010年の秋だったかもしれない。その後に2011年3月11日の大震災があったわけですが、丸山さんは実家が気仙沼だったんですよ。で、この作品の打ち合わせで原作の出版社に行こうと言ってた日が3月11日だったんですけど、グラグラって揺れて(この映画のために)集めてた僕の(資料の)本が僕の上に落っこちてきて、下敷きになって、でどうするのかなって思ってたら、じゃ打ち合わせに出版社に行こうかという話になって、車出して行って、何か知らないんですけど帰れないんですよ。東京中が大渋滞になって。で、そこでカーナビのテレビで気仙沼が燃えているわけですよ。燃えているし、波で洗われて色んな物が無くなってるし。そういう風になっている状況を見ると、今度は空襲で全部燃えてしまう町だったり暮らしている人だったり、それを更に乗り越えた昭和21年まで暮らしていくっていう人たちの物語というものがね(切実になって来て)、丸山さんの中では「これは自分にとっても完全にやる意味が生まれた」という話になりまして。もう二人がかりで後には引くに引けない感じになっているんです。
氷川:辛いことを乗り越えていく話ではあるんだけれども、当時もほとんど今と変わらない生活があって、感性とかそんなに違わない。要するに戦争中の話って結構トーンがねじ曲がって今に伝わっていて、恣意的に戦争反対的なニュアンスが加えられている作品が多いわけですよね。その頃はイケイケだったり無関心な人もいたり、それこそ3・11が起きた今の反応とそんなに違わない。
片渕:『この世界』のために色々調べたんですが映画の中で反映される余地がないんで喋ってしまうんですけど、戦時中の女の人ってもんぺを履いてますよね。もんぺって何時から履き始めたのかなというのを調べてたら昭和18年の秋ってもんぺ履いてないんですよ。もうちょっと前、昭和18年夏位かな山本五十六元帥が戦死とかいって、山本五十六の写真が銀座かなんかのショウウィンドウに飾られているのを少女たちが見てるって写真があるんですが、ストッキング履いた洋服姿で凭れ掛かってショウウィンドウを見てる写真とかあってね、それがどこでもんぺを履くスタイルになっていったんだろう、ってずうっと調べてたら昭和18年12月とかその辺なんですよ。で、なぜ履き始めたかって理由が炭とか薪の配給がその冬出来なかったんで寒かったって言うんですよ。そして19年の4月位になると新聞の天声人語みたいなコラムで「最近になって暖かくなったらと言ってもんぺを履きたがらない女性が増えた」って事がこれは困るって書かれているわけなんです。結局ね、もんぺのスタイルって寒いからとか便利だからって履いているんで、強制しようって法律は無いんですよ。
氷川:今のジャージ履くのとあんまり変わらないんですね。
片渕:ただ大政翼賛会みたいなのが、こういう格好をして戦時としての意識を高めようっていうアピールは盛んにやってるんだけど、それに対して日本の国民は全く乗ってなかったんですよ。ただ寒くなったから履きだしたっていうのがあって、これはショッキングなくらい今の我々と同じ感覚だったりするんですよね。
氷川:だから内地はイケイケで、大本営発表を信用してたってこともあるんでしょうけど、戦争終わりの東京大空襲のころ、終戦から遡って1年位が本当に良く映画に描かれているピリピリした感じだったんじゃないんでしょうか。
片渕:黒澤明監督の『一番美しく(1944年)』って映画があって、勤労動員の女子の話なんですけど、昭和18年から19年に掛けて撮影している筈なんだけど、外のシーンで夜景の街灯がピカーって輝いてるのを撮ってるんですよ。灯火管制ってどこ?って感じがあって。そういうもんだったりするんですよ。(灯火管制なんかやっちゃったら)暗くなったら(足元不如意になって)歩けないから危ない、って(否定的に)言われているんですよ。で、そりゃそうだよな、って思うわけなんです。危ないから空に向かって電球が光らないようにしましょう位なことは言われてたんだけど、実際空襲があってどうのこうのなるまではそういう意味では庶民の意識としては暗いと危ないじゃんということの方が大事だったりするわけなんですよね。それっていうのは色んなことで覆い隠されて忘れちゃう事だったりすることだと思うんですよ。そういうものを思い出させてくれる原作だったりして、それは本当はこうだったんじゃないのっていう、こうの史代さんていう原作者の想像力が生み出して気がするんですよ。もちろん色んな事を調べられている上で描いているんですけど。
氷川:実感力というか、存在感のシンクロ力というものを感じましたね。
片渕:そうそう。そういう意味でいうとそれは世界を成り立たせるための機微だったりするわけですよ。
氷川:私もさっきの文章を書くにあたって原作を読んだわけですけど、これは本当に片渕監督のためにあるような作品で、実に『マイマイ新子』的でした。50年前、あるいは戦前だと60年前、そこにこうだったんだろうなという世界が、かなり実感ライクにシンクロしていると感じました。
片渕:『マイマイ新子』に「千年の魔法」って出てくるんですけど、原作の高樹のぶ子さんの『マイマイ新子』っていう小説の中には「この土地には千年前には国の都があったんじゃ」ってお祖父さんが言うんだけど、どんな都か書いてないし、誰が住んでいたか一言も書いてないんですよ。それで調べたら偶々清少納言が子供の頃に居たって分かったんです。それで仕方なく…中学高校の頃は古典とか苦手だったんで、仕方なく読み始めたんですよ。清少納言の書いた『枕草子』とか読んでみたんですよ。それがあんまりにも今と変わらないんでびっくりしたんですよ。
氷川:当時の短歌とかTwitterみたいなものですもんね。
片渕:宮中で侍女みたいなことをしている女の人達がいてね、ある時、宮中の色んなところを巡ってみましょうって話になるんだけど「櫓があるけど登れないのかしら」「今日は登ってよいそうよ」というやり取りがあって、みんなで登って(下にいる人に)手を振るとか、それって全然今の女の子たちの風景だなって思ったりするわけですよ。映画の中で牛車の上に一杯のウツギの花を飾っているのも、大人になった清少納言が本当にやってるんですよ。あれは実際には京都でやってるんだけど、山の方に行ってみましょう、って今でいうピクニックに牛車で行くわけなんだけど、行った先でお昼を出して貰えないでしょうか、って言ってお昼を出して貰うんだけど、そこで今日は気持ちが良いからお外で食べましょうなんてことをやった上でお花が一杯咲いて綺麗だからこれで牛車を飾って都に帰ろうかしら、みたいなことをやってるんですよ。今度は大雨に降られるわけですけど。
氷川:わはは。
片渕:そういうものって全然千年前の人って気持ち(だっていうこと)を忘れさせてもらって読めるものだったりして、いつの時代でも人間変わんないんだなって。
氷川:そうなんですよね。『この世界の片隅に』のために書いた応援文がハイテンションだったのも、日付を見たら2011年8月になってて。ちょうど震災後のメンタル的な影響もあって、その頃に「アニメって何が出来るのかな」っていうことを震災以降ということに関してすごく考えていた時期です。意外とアニメが連綿と描いてきたような、人を活気づけるとか、エネルギーを与えるとか、ある種の賦活力が必要とされていくだろうと思ったんです。よくキッズアニメとかで「あきらめるな!」とか言ってますよね。僕は子どものころ馬鹿にしてたんです。でも意外と大人になってみると、そういうのが自分の一部に肥やしとしてなっていたりする。この作品が描いているのは、昔も今も変わらないエネルギーがあり、何か乗り越えられるものがある、生活っていうものは変わらないんだっていうことですよね。色々流行はあるけれど、根底のところでは変わらないところが力を与えると。そんなようなことを考えながら、文章をまとめたと思います。
片渕:まさにそのように作ろうとしていました。今日午前中は『この世界の片隅に』の昭和20年8月15日の場面の絵コンテを描いていたんです。それでその後にやらなければならないのが8月15日の晩御飯の話をしなきゃいけないんですよ。お昼に戦争が終わったのに晩御飯を作らなきゃいけないという話をこれから絵コンテにしようとしてるんです。その晩御飯はその後も毎晩続く晩御飯の最初のひとつだったりするし、それまでずっと続いてきた晩御飯のただのひとつだったりするわけなんです。
氷川:情報はこれからおいおい発表になっていくと思いますが……。
片渕:まあ原作を読んでしまえばネタバレもなにも無いですけど、それに原作は非常に名作ですのでこれは是非読んで頂きたいと思います。
氷川:原作は筆で書かれているんですか?
片渕:いえ、違うんです。色んな手法で描いているんです。最近はこうの(史代)さんは『ぼおるぺん古事記(平凡社 http://webheibon.jp/kojiki/ に連載)』という作品でボールペンを使って漫画を描いてらっしゃいますが、原稿見させて頂くと普通のケント紙に一コマだけ切り抜いてあって、その紙を裏打ちして貼ってあって、ザラザラの紙に鉛筆で描いてあったりするんです。
氷川:マチエールを変えるみたいに?
片渕:そうそう。氷川さんが筆だと思われたのは全部鉛筆のページなんです。
氷川:そうなんですか。
片渕:それから口紅も使ってますね。
氷川:すごいですね。
片渕:一昨年の夏に『マイマイ新子』の件で……『マイマイ新子』は山口放送が製作委員会に入っているんですが山口放送っていうのは日本テレビ系列なんですが2010年8月末の『24時間テレビ』の地方枠の中で『マイマイ新子』感想画コンテストをやってたんですよ。それを僕と原作者の高樹のぶ子さんと審査と表彰式をするってことをやってたんですが、やったあとにその日が広島県廿日市でこの作品の原画展(『第14回平和美術展 こうの史代まんが原画展』・はつかいち美術ギャラリー・2010年8月5日~8月29日)行われていて……。
氷川:広島ならパッと行けます?
片渕:パッと行かないとダメなんです。そこまで近くないんで、瞬時には行けない。しかも広島市だったらいいんですけど、廿日市なんですよ。宮島のあたりなんですけど、それで、高樹のぶ子さんに「申し訳ないんですが、ここで置いて行きますから」「いいわよ、私は博多へ帰るから新幹線来るまで喫茶店で時間潰します」「申し訳ありません!」というやり取りをして新幹線に乗り、広島駅を駆け抜け、宮島線に乗り、17時に終わる原画展に20分位前に駆け込んで、かなりの点数があったんですが、その時に見たのが鉛筆で描かれた原画でしたね。あと口紅のはなかったと思いますが、左手で描いてある原画とかありましたね。それは印刷されているもの以上に我々に訴求するものがありました。表現することにどれだけ力を注いでいるかということだったりするんですが。
氷川:生の力みたいなものでしょうか。
片渕:氷川さんが昔はぶっ叩くとアニメって星が出てたみたいな事を以前言っていましたが……。
氷川:花火とかショックとか言われている記号ですね。
片渕:バーーンってやるとショックがボンボンボンと出て、それがぶっ叩いたって表現になってたんだけど、それは只の記号で、ぶっ叩いたもの、それがボールなら変形してビューンって飛んでいくのが表現なんだみたいに、日本のアニメーションはどんどん進んでいるように思われます。初期のころは記号を並べることに終始してたのがね、表現みたいな方向に来て、先程上映されていた『ももへの手紙』の作画の表現に行ってしまったりするわけなんですよ。
氷川:大スクリーンで観ると、おそろしい作画パワーですよね。
片渕:それは我々がやっているのは、なぜ映画を画に描いて作るかという根源的なところだったりだと思うんですよ。こうの史代さんの漫画なんかも根源的なことを思い起こさせてくれるし、沖浦監督とかがやった仕事も思い起こさせてくれるんです。なんで我々は実写ではなく、人間連れてきて同じように動かせばいいじゃんと思うようなことを、本当の人間みたいだねっていう画を何でわざわざ描かなければいけないのか。それが実は大事なんだということに思い至るきっかけにこうのさんの作品はなっています。
氷川:昨日の石黒昇さんを送る会で配られた小冊子に石黒さんが病床で書かれた未完のエッセイがあるんですが、その中にも「あえて絵でやることに意味がある」「あえてやるからこそ伝わるものがある」という事が書かれていました。『宇宙戦艦ヤマト』の時代ですが、オプチカル合成やマスク撮影とかややこしいことをして、多重合成みたいなことまでして、他のアニメには無いような映像を石黒昇さんは作られていたんですが、今はデジタルになって普通に出来るようになったんです。でもそれが簡単に出来るようになってしまうと、急につまんないものになっちゃう。ハリウッド大作的なものも、一つ一つはすごく超現実的なことを描いているんだけど、全体でみると「ふーん」って冷めた感じになるのは、なぜなんだろうと考えますね。それはあえて難しいこと面倒くさいことを乗り越えるときの粘りっけみたいなものから、何か伝わってくるものがあるからではないかと。
片渕:石黒昇さんて方は松本零士さんていう漫画家がいて、漫画家なんだけどアニメーションに物凄く造詣が深く興味があった方が監督をされた『宇宙戦艦ヤマト』で、その監督の意図を汲み取って表現として組み立てていくかということをやられていました。
氷川:現場監督として具体化する仕事ですね。
片渕:そうですね。それも色々なタイミング的な表現も『宇宙戦艦ヤマト』の中では使われていて、これだけの間は取らないよなってという物凄いインターバルがあったりしてね。
氷川:超ロングショットとかね。
片渕:そうそう。そういうものを作り上げられて、まさに表現みたいなものでアニメーションの映像を創りだそうとしていた方だったんですけど、2年前だったか吉祥寺で『マイマイ新子』を上映してたら、石黒監督が観にきていらしてて、その後、せっかくいらしたのでお話を伺わなきゃと思いまして、飲み屋さんに誘って、僕も飲めないし石黒さんも飲めないんですよね。
氷川:ご病気の直後ですかね。
片渕:そうですね。で、飲まないのに、かなり長時間に渡ってお話伺ってですね。『宇宙戦艦ヤマト』の時は面白かったんだよ、爆発を指に絵の具付けてセルに描いてたんだよ、そうしないと表現出来ないから、って言うんですよね。でね、その後の松本零士さんの漫画の作品では指に墨を付けて指紋で爆発を描いてらしたりしててね、ああいうのが面白いなって思いました。お互いに影響・刺激しあってたんですよね。雲みたいな爆発を描くときに全部指紋で描いてたりして、ああいうものは物凄く面白いですし、その面白さっていうのが我々が何かをやろうとする時に本当は根源にないといけないものの様な気がしますね。
氷川:今、爆発の話をしましたが、『ももへの手紙』の芝居だったり、小道具のディテールだったりも人が手で描いているわけで、根気よく描いていくことが力を宿すことにつながるってことはありますね。


(3)へ続く


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