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『マイマイ新子』片渕須直監督トークショウ in キネカ大森(3)

『マイマイ新子』片渕須直監督トークショウ in キネカ大森(2) からの続きです。

2012年09年08日
16:35(~18:15)『マイマイ新子と千年の魔法』
18:25(~20:27) 『ももへの手紙』
20:30 トークショウ&ティーチイン

会場:キネカ大森
ゲスト
映画監督:片渕須直
アニメ評論家:氷川竜介


f:id:mikeshima:20120908205553j:plain
@kazu_tama さん撮影


氷川:……と長くなりましたが、ここでティーチインに入りたいと思います。

観客A:アニメーションの人物と背景について質問致します。以前は人物とセルで描いて、背景は画で描いてという作り方だったんですけど、デジタルによってセルは無くなったあと、背景と人物で画としての差異が特に日本のアニメーションでは縮まっていないと思うんですが、片渕監督としてはトータルしての画としてのアニメーションについてどのように考えているのかお聞かせください。
片渕:その話はかなり難しい話だと思うんですけどね。自分の考えじゃないかもしれないけど、いくつかあって一つはアニメーションの画が輪郭で囲われて中がベタで塗られているってのは、遡っていくとアール・ヌーボーの画に戻るんだけど、で、アール・ヌーボーの画って何かっていうと浮世絵の画だったりして、遡ると結局日本画だったりするんですよね。日本画は輪郭で囲ってあって中はベタで塗ってあって、それに対して西洋の絵画はフォルムではなく、質量なんですね。デッサンみたいに陰影を付けて質感を表していく西洋の手法が一つの考え方としてあって、それに対して日本の場合は輪郭で描いていくわけなんですが、背景は背景でね、日本の(アニメの)背景屋さんに聞くと「我々が描いているのは日本画だから」って言うんですよ。『ももへの手紙』は大野広司さんが美術監督をされているわけですけど、輪郭云々を別とすれば、かなり淡い表現は日本画の技術の応用だったりするんですよ。厚塗りしないですし。全然別の系統から入ってきた日本画の考え方がアニメーションで一つに融合しちゃっているのかなと思います。そういう意味では人物の背景の表現はそんなには遠くないのではと考えてます。もう一つは背景は背景で綺麗でいいじゃないか、って気がするんですよ。背景を無理に人物と合わせたり、人物を無理に背景に方に持っていったりってことを敢えてしないのは背景の空気感みたいなことを物凄く大事にして、それこそ世界の機微みたいなことで、美術のスタッフの人たちがそこに物凄く力を注いていたりしますから。アニメーションの作画の技術も物凄いですが、それと同時に背景の表現力も侮れない感じがしてて、差異を無くしていった場合、それはどっちがどっちを食うかのような事態、どちらかがどちらかをスポイルする形になんないのかなって気もしてます。そうはならないトータル的なデザインが生まれればいいんですけど。ただ、アメリカのフランク・フラゼッタの画、アメコミのような画を見たとしても、やはり背景と人物は等質じゃなかったりしますしね。それは背景として求められているもの、キャラクターを全面に押し出すために求められている役割の違いを感じます。
氷川:CGでもピクサー(ピクサー・アニメーション・スタジオ)の『ファインディング・ニモ』なんかを見ると、キャラクターと背景の明度や彩度は変えているように見えますからね。動きの情報はキャラクターで伝えて、世界観的は情報は背景で伝えるところに日本と大きな差は無いのかもしれませんね。ただそのお約束で日本人がアニメと思うのは輪郭線で囲われたもの、特に原作漫画からアニメにする時には親和性なども含めてそっちの方が主流だという日本独特の事情にも拠るものだと思いますね。この10年間でアメリカの劇場は全部CGに置き換わってしまったんで、日本も後を追うかと思ったら、全然追わないので、日本固有の様式としてしばらく残っていくと思います。今年フルCGでも『サイボーグ009(『009 RE:CYBORG』2012年・神山健治監督)』とかは輪郭線のあるキャラクターで勝負しようとしていますし、しばらくはハイブリット系の画風が続いていくんじゃないですかね。ちなみに日本では輪郭線云々ではジブリの『ホーホケキョ となりの山田くん(1999年・高畑勲監督)』とかは全然違う筆ペンみたいな輪郭で表現したり、最近の劇場版『ドラえもん』などは『山田くん』と同じ小西賢一さんが作画監督をされていますが、太い鉛筆の線で表現したり、第三の選択肢もあったりします。
観客A:ありがとうございました。

観客B:一部の方が言われていることなんですが、『マイマイ新子』の中で諾子ちゃんが千年後の新子たちについて何らかの形で気付いてたんじゃないかという話がありまして、未来について諾子ちゃんぐらいじゃないかと指摘がありました。実際に道中で足踏みをするシーンなどはそのようなイメージがあったように思いますし、セリフでも「私のところにも来て」というのがありましたが、あれが誰に向けてのものかなど、そのあたりについて伺えればと思います。
片渕:解釈は色々あっていいんじゃないかと思います。そこを「こうです」と言いたくないというのが一つあるんですが。むしろ自分より凄い解釈が生まれた方が僕は楽しいような気がします。あそこにこんな糸を通したらこんな風になりました、というのを聞かせて頂ければ凄い有難いです。
氷川:その方が刺激になる?
片渕:そうですね。「こんな風に考えました!」「そりゃ参りました。ごめんなさい。」という感じになりたいです。
氷川:想像力の勝負ですね。
観客B:そこはもともと含みを持たせて作られているわけなんですね。
片渕:昨日、脚本家の辻真先さんが僕が前にやった『BLACK LAGOON』でヘンゼルとグレーテルという双子の話があって、キッドナップにあって非常に性的な虐待を受けてた子供がね、自分はこうなってるって下半身を捲って見せて、見せられた方はギョッとするんだけどあれは何故ギョッとしたのかを「あれは本当はどうなんですか?」と問われて。聞いてみたら辻真先さんは大学で教えてらして学生とその辺のことでちょっと討論になったみたいなんですね。学生さんはどう考えられたのかなと聞いてみたら、その学生さんは「こういうことかな」と言ってたみたいなんですが、それは一つの凄く的確な答えだと思うし、だけど、じゃあそれ以外のこともあっても良いかもしれない。なんだろう、何故ギョッとしたんだろう、自分はそこに何を見てしまうんだろうということをね、これだって決め付けなければ見ている人にとっては永遠に気になることになってしまったりして、その事が非常に大事なんだとしたらむしろ答えを出さないことが必要なんじゃないんですかね、というやり取りをしました。観客の側に委ねることが観客を最も刺激することになるのかもしれないという話をしたら、辻さんが「それでいいんじゃないの」とおっしゃってました。で、良かったー、と思ったんですが(笑)
氷川:昔から、リドル・ストーリーという結末の分からない物語って結構あるんですよ。『女か虎か?(F・R・ストックトン)』が典型なんですが、読者が自分の価値観で選んだ方が答えになるみたいなことですよね。分からなくさせることによって、永遠に心の傷になって引っ掛かり続けることも表現だったりするわけで。
片渕:『マイマイ新子』なんかで千年前の女の子たちは想像力の産物だって言う人もいるかもしれないけど、そういう人がいればいるほど、あれはタイムトラベルなんだと主張したくなっちゃうんですよ。
会場:(笑)
片渕:あれは超能力だって誰も言わないのは何故だ?
会場:(爆笑)
氷川:『マイマイ新子』はSFだよ、と。
片渕:そうそう。
氷川:『アリーテ姫』もSFですしね。ちなみに『アリーテ姫』も1000年後がキーワードになっている話ですから。丁度『マイマイ新子』とくっ付けると反対側が描かれている感じです。
観客B:ありがとうございました。
氷川:思い出した有名な話があります。時間が未来に向かって流れているのって、実は証明不可能だったりするんですよ。人間の意識は現在しかないので。そういうことを含めて世の中分からないことの方が面白いって実感もあります。
片渕:分からないといけない(という)風潮もあって、それもちょっと苦手だったりするんですね。それが解釈不能だったり、感情移入出来ないとか、そういう風に言う前に、自分はなぜその人物に気持ちが入って行かないんだろうとか、そこを考えた方がご覧になっている方にとっても非常に有益なんだろうになって思ってしまったりするわけなんですけど。例えば『ももへの手紙』なんかもね、要するにお化けは本当に居たのかどうなのかを疑ってかかるべきだと思うし、『マイマイ新子』にしても千年前の子が見ている昭和30年の幻想かもしれなかったりするし(会場笑)、そんなところまで広げていけば素晴らしいイメージを抱かれた方の勝ちになるわけで。僕らは事あるごとに言っているんですがフィルムを作るだけの立場なもんですから。フィルム作って何をやっているのかといったら皆さんの中で映画が完成する手助けをしているだけなんだと思うんですね。ご覧になった方の数だけ映画って存在して良いと思うし、ご覧になった方が一本のフィルムから二本も三本も映画を生み出せるんだったら、もっと素晴らしいことだと思ったりするわけなんですよ。おこがましいんですけど。
氷川:エンターテインメントって色んな形があっていいと思うんです。今言った触媒みたいなものを届けて、お土産みたいな形で、心の傷なんかも含めて、残すことも娯楽なんだと思うんですね。全部解決してハイお終いって娯楽映画も結構あるんですけど、本当に翌日忘れているようなね、ハリウッド映画ではあえて忘れさせようとしているメカニズムもあるらしいんですけど、そういうのもあれば、考えさせられる娯楽もあるってことでいいと思います。
片渕:いやだから僕、『ももへの手紙』のももが本当は(グレて)果物とかトマトとか盗んできていて、でも心の中では違うって思い込もうとして(お化けを心的に出現させてしまって)るとすれば今の映画はどう見えるか。
会場:(爆笑)
片渕:なんでそう思ったかというと、『マイマイ新子』をやってるときに僕とうちの奥さんもメインスタッフだったから殆ど家に帰れなくなっちゃって、帰ると冷蔵庫のホワイトボードに(ずっとほったらかしにされてた)娘の字で「もう食べるものがありません」「冷凍食品もみんな無くなってしまいました」「カップラーメンもありません」って書いてあって、で、その後急にグレだしてですね、結構大変だったんですよ。
会場:(大爆笑)
片渕:グレてもおかしくないよなって思ってしまいました。(『ももへの手紙』を見ながら)あれくらいの年頃だったよなって思って、リアルに考えれば考えるほど思い当たる節があって…。
会場:(爆笑)

氷川:次の質問に行きたいと思います。
観客C:他の作品を見て、その作品と共通するところから新しい解釈をすることはありでしょうか。『マイマイ新子』の後半で敵討ちを終えて帰って行っていくあたりで夜道でお父さんに会うって下りっていうのがある意味分かるようで分からなかったんですが、他の作品を見ていてその解釈を思いついたものですから。
片渕:お父さんがなぜ出てきたっていうと、高樹のぶ子さんの原作『マイマイ新子』にはああいうシーンは無いんですよ。実は『光抱く友よ(1987年・新潮社)』って別の小説にあって、作っている方が別の作品を読んでインスパイヤされているわけだから、当然ありなんじゃないでしょうか。
観客C:私も『光抱く友よ』は読んでそこからお父さんを登場させたってのはそこで分かったんですけど、敵討ちの後に貴伊子のお父さんもちゃんと出てきますよね。それで割と貴伊子からみたお母さんに比重があるわけですよね。敵討ちがあって色んなことがあって、そこで更に新子のお父さんが出てくる。最後に貴伊子と新子のお父さん達が出てくるってことに関して、そのお母さんからお父さんへのシフトが見て取れたときに、他の作品を見たときに「生まれ直し」っていうのかなと思ったものですから、もしかしたら新子の敵討ちと同時に、貴伊子は千年前に自分を重ねるってことをやって、あの夜で新子と貴伊子は生まれ直しをしたんじゃないかと思いました。それで生まれ直して、それでお父さんに出会うってことで次のステージに進むという解釈をしたんです。
片渕:どう考えても夜道に突然現れてお化けみたいな人ですからね。でもその辺っていうのは氷川さんがこないだおっしゃっていた最近のアニメーションは片親の主人公が多いと。
氷川:その話はもう少し正確に言うと、今日の『もも』もそうなんですが2012年ってアニメ映画の当たり年と言われているんですけど、『ももへの手紙』と『グスコーブドリの伝記(2012年・杉井ギサブロー監督)』『虹色ほたる(2012年・宇田鋼之介監督)』『おおかみこどもの雨と雪(2012年・細田守監督)』なんですけど、このうちの4本中3本が片親が死んで田舎に行く話なんですよ。『マイマイ新子』も貴伊子ちゃんがその先駆けみたいな感じなんですけど、だからこれ放っておくと海外のアニメ評論家みたいな人から「日本は震災があったから心の癒しを求めて田舎に旅をするブームがあったんだ」とか言われかねない。当然アニメーション映画は3年とか5年とか7年かけて、このタイミングで偶然に連続公開されているだけなんですけど、そういう共通項がある。『グスコーブドリの伝記』は両親が亡くなってこれだけは田舎から都会に出てくるんですが、故郷を離れる点ではいっしょだったりします。それはなぜですか? というのを今日の話題にどうですか、なんて話していたんですけど。
片渕:一つはその答えとしては作劇的なテクニックではあるんですが、もう一個言うと親二人居るのって実は物凄く煩わしいんですよ。本当にそうだと思いますよ。親二人居て子供一人しか居ないんだもの。親二人と子供一人が相対していたら場面として、子供の立場として煩わしいんですよ。それは親一人一人にその子供と直面してもらうしかなくて、同時に二人現れられると敵わんなぁってなるんですよ。夫婦喧嘩されてたらもっとイヤだし。なんだけど、『マイマイ新子』やりながら思ったのは貴伊子ちゃんはああいう立場として、新子だけは確実にきちんと育っている、両親がきちんといるから育っているという意味では無いんですが、ちゃんと与えられるべきものを与えられて育っている子供にしたいなと思ったわけなんですよ。その時に母親が与えてくれるものもあるし、父親が与えてくれるものもあるだとうと思うんだけど、それは両方とも彼女の上に結実してるんだろうなということを貴伊子がね、お父さんを見ることによって「新子ってこういう子なのはこういうお父さんが居たからなんだ」思ってくれれば良くて、最後の最後にある種のネタばらしに出て来てくれればいいかなって思ったわけなんですよ。新子のお母さんはちょっと突拍子もないですし(笑)
氷川:なんで田舎に行くんでしょうか。住処を変えるのは分かりますが。『おおかみこども』をスローライフ志向だという意見もありましたが、それも違う気がして。
片渕:共通して言えることは都会を魅力的に描く根拠が都会の側に見つけにくいんじゃないかと。それにしたってリアルに考えたら都会のほうが生活しやすいですよ。田舎の人間関係の方が面倒くさかったりしますから。田舎で一人暮らしをしたら大変ですよ。お葬式も出せなかったりしますからね。そういう意味で言うとある種の幻想としての田舎が存在してるってことは都会に対して何らかの魅力を感じられない部分ってのがあるんじゃないかという気がしますけどね。
氷川:都会を描くと急に時代感が特定されすぎちゃうのかもしれませんね。『おおかみこども』はものすごくぼかしていて、平成のどこかではあるんですが、携帯電話を使ってるシーンがないですし。
片渕:『ももへの手紙』も出て来ませんね。
氷川:今、携帯電話を出すと大変なことになるんです。ちょっと前の作品で『東のエデン(2009年・神山健治監督)』って作品があったんですけど、あれは当時最先端のものとしてノブレス携帯って機種が出てくるんですが、今見るとスマートフォンじゃないだけで既に古い作品のような気がしてくるんですよ。アニメと風俗の描き方って、そんな怖いところがあるんです。
片渕:僕はもう携帯電話の出てこない世界ばかり描いてますが…。
会場:(笑)
片渕:デジタル的なところに執着しちゃうとあっという間に時代遅れになっちゃうじゃないですか。
氷川:陳腐化が激しいですよね。現実のデジタル機器そのものが陳腐化が激しいので。
片渕:僕なんかもそういう意味でいうとパソコンとかはね、大変有益だし自分にとっても役に立ってくれているんですけど、それが無い世界ってどうなのって言われたらそれはそれで魅力的とまでは言わないけど、その時間ってのは大事な感じがしてくるんですよ。逆にインターネットの使えないところに連れて行かれたら結構その時間は有意義に過ごせそうな気がします。細田監督なんかはネット使いまくりの『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム(2000年・細田守監督)』や『サマーウォーズ(2009年・細田守監督)』があるし……。
氷川:細田監督は極めてしまったから、イチ抜けしたんだと思います。あれも丁度SNSやフェイスブックが流行りだす直前でiPhoneも出てますし、3年経ってもギリギリ陳腐化していない。でも、他のあの時期のアニメではみんな二つ折り携帯を使っていますし、来年あたりはちょっと厳しくなるかもしれません。話が逸れちゃいましたが。

観客D:『マイマイ新子』とは直接関係ありませんが、片渕監督は『おねがい!サミアどん(1985年・小林治監督)』を担当されていた記憶がありますが、今から27年前の作品なんですけども、私は当時高校一年でリアルタイムで視ていました。『サミアどん』はCS以外ではなかなか見られず、パッケージ化もされていませんが、当時27年前にあの作品は日本版のカートゥーンみたいな感じで動きもかなり枚数を使っていましたし、世界観も最初に一家が田舎に引っ越してくるところから始まるんですが、片渕監督が当時担当されていて一番苦労されたこととか、こういうことをやったんだよな、ということがあれば伺いたいと思います。
片渕:亜細亜堂メインで製作されたんですけど、亜細亜堂の人達の作画ってメチャクチャ変なんですよ。
会場:(笑)
片渕:変なのってのは物理法則を曲げて、バーンって水柱を立ち上がったとして、水柱の水しぶきが(手でくねくね軌跡を描きながら)こうやって落ちるんですよ。格好いいんですよ。ああいうのを真似したいんだけど。
氷川:芝山努さん小林治さんですか?
片渕:あと望月智充さんとかかなりやってましたね。すごくスタイリッシュでああいう風にならないかと思ったりしました。
氷川:『ど根性ガエル(1972年)』を作った人達ですしね。
片渕:『おねがい!サミアどん』でびっくりしたのが美術がまたスタイリッシュなんですけど、美術監督が『ももへの手紙』の大野さんなんですよ。しかも『魔女の宅急便(1989年・宮崎駿監督)』をやっていただいて、『魔女の宅急便』は大野さんが良いんじゃないんでしょうかって言ってやって頂きました。大野さんは作品ごとにスタイルが違うんですが、スパっと綺麗な直線ではなくてね、それがスタイルを持って綺麗に変形している画を描かれていてそこに憧れてしまったりしますね。
観客D:『サミアどん』の本放送を視ていてフリーハンドの線が凄く温かい印象がありました。あの頃の東京ムービーの作品ではずば抜けて作り手のぬくもりの感覚が感じられましたが、スタッフの皆さんも熱が入っていたみたいなところもありましたでしょうか。
片渕:あの当時ですね、東京ムービーが日本のテレビ局と関係があまりよろしくなくて、テレビの仕事がほとんど無くなってしまったんですよ。あれしかないからみんなあればっかりやってたんですよ。あとは合作か。
氷川:日本のアニメ会社がこぞって合作に一瞬舵を切って、円高になってすぐに戻ってきちゃんですけど。
片渕:それこそ『宇宙戦艦ヤマト』を見てその人達が大人になってアニメ業界にガッて入って来た時に起こったのがアニメ業界こぞってアメリカの下請けになる合作ブームだったんですよ。
氷川:片渕さんが脚本を担当した『名探偵ホームズ(1984年・御厨恭輔監督、宮崎駿監督)』なども。
片渕:『名探偵ホームズ』はイタリアと合作なんですが、あの当時はイタリア、フランス、アメリカと合作と言ってるうちに只の下請けになってしまって……。
氷川:日本に頼むと他の国に頼むより特殊効果が一杯入ってきて、アメリカのアニメーターより半分のコストで三倍のクオリティで上がって言われてる記事も見ました。
片渕:日本のアニメ業界はそういう仕事をかなりやってました。そういう意味で言うとそれは合作と言いつつ下請けみたいになっていったのは、日本のアニメーションがその当時、こういう表現をやってますよ、というのをアメリカやヨーロッパに直接持って行っても受け入れてもらえる素地が無かったんですよ。今でこそアメリカに行ってもヨーロッパに行っても日本の普通のアニメのDVDがDVD売り場に一コーナー並んでますからね。30年、それくらいの時間を掛けて日本のアニメーションがある種のスタンダードまで成ってこれたのかもしれないです。その前の時期ってのは我々には表現意欲はあるんだけど、表現する場所が無かった。で、海外との合作で変な表現とかやったら益々訳が分からないことになって、これ分からないですって言われちゃったりしますから。それが今ストレートに日本のお客さんを相手にするように作ればそれが他の国の人にも普通のものとして認めてもらえる感じになってます。それは時代の流れみたいなものを感じます。そういう風にしつつも、その頃合作をやっていた世代や、その後に入ってきた世代が、合作でやっていたような2コマ作画ではなく、こうやったらアメリカ的なアニメーションではなくもっと自然な人の営みの中で見せる動きが出来るよ、こういう風に描く方が良いという流れができて、『ももへの手紙』のような作画に結実しているんだと思うんですよ。それこそ30年とか長い時間を掛けて出来上がったものだったりして、氷川さんは今年空前のアニメブームだと仰っていましたが、それ以前でも2008・9年位からここ何年かは長編の日本のアニメーションの質が異常に高かったりするんじゃないかと思うんですよ。自分の作品もその中に入ってしまっておこがましいんですけど(笑)で、2006年が日本のテレビアニメーションの放映本数のピークだったと言われて、2007年からそれが下り坂って言われているんですが。
氷川:今年V字回復してます。
片渕:V字回復なんですけど、逆に言うと2006年から2~3年の制作期間を掛けて劇場用を作ると2009年位に現れてくるわけなんですよ。
氷川:『ももへの手紙』もその頃から作ってますしね。
片渕:『マイマイ新子』を作っていた頃は同じスタジオの中で劇場を8本横並びで作ってて、8本横並びってどこの黄金期の東宝映画じゃ!って感じじゃないですか。りんたろうさんの『よなよなペンギン(2009年・りんたろう監督)』もその時期のものだったりしますしね。そういうものがたくさん作られたんだけど、ここに来て頂いている方にそういうことを言うのは本当に筋違いかもしれないんですが、そういうものが存在しているってことが、まだ世の中にうまく行き渡ってないというか伝わりにくい感じがしてて、勿体無いよとしか言えなくなってしまいますね。自分の商売がそれじゃ干やがるってことは別としても、勿体無いよって気持ちが物凄くあるんですよ。さっきも『ももへの手紙』で結構親子連れが来ていらっしゃっていましたが。
氷川:子どもさんの声がして良かったですね。
片渕:本当に良かった。ここキネカ大森さんでこういう機会を与えてもらったりして、これが凄く勿体無いということへ対しての一つの回答を示して頂いているように思うんですけどね。我々としては勿体無いと思われるような作品を作って行こうと思うんですけど、どっかで世の中の皆さんに気付いて頂ける作品を作っていって、しかも数多く存在してるんだよ、ということを気付いて頂けると良いなと思う次第です。
氷川:『マイマイ新子』のロングランはその旗印の一つだと思います。
片渕:この前も広島で『ヒックとドラゴン(2010年・ディーン・デュボア監督)』の野外上映をやってましたが、『ヒックとドラゴン』も公開の時はかなり苦戦したりして、そういうものがきちんと後で評価されて上映されている状況がもっと広がると良いなと。
氷川:それは観客側の問題でもありますね。観客側にも、まだまだ出来ることはあると思います。
片渕:そういうこととして我々は仕事をしていますから、温かい目で見て頂けると良いかなと思います。締めの言葉っぽくなっていますが。
氷川:終了時間のサインも出てますし(笑)。長時間にわたってありがとうございました。
片渕:ありがとうございました。
会場:(拍手)



(了)




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